弘前繁栄の礎を築いた津軽為信
城下町弘前の建設は、津軽藩祖、大浦為信(ためのぶ)の居城移転に始まります。戦国の世、津軽の長に君臨していたのは三戸(さんのへ)に拠点を置く南部氏。大浦氏はその支配下で力をつけ、為信の代になって南部側の城を次々と攻略。1590年、豊臣秀吉から津軽支配を承認され、ここに津軽氏が誕生しました。為信はこれまでの居城、大浦城(岩木川西岸)から堀越(岩木川東岸)へ移り、さらに川の氾濫(はんらん)を避けるため、高岡(現弘前市)に新城と城下町の建設を計画。しかし旅先の京都で亡くなり、遺志は2代信牧に引き継がれます。1611年、
弘前城は完成し、同年、堀越から家臣団、寺社、商工業者が移転。基本的な城下町の体裁はこのときに整いました。現在も町名として残る百石町(ひゃっこくまち)、五十石(ごじっこくまち)町、代官町などは侍町の名残、親方町、塩分 (しおわけ)町、紺屋町、大工町、鍛冶町などは商人・職人町の名残です。また寺社を城下に集め、軍事の備えとした形跡は
禅林街として今もそのまま残されています。