
世界のプリマドンナの波乱の一生は、 歌と恋に彩られていました。
音楽家の道へ
お嬢さん育ちの環は、女学校時代の教師に音楽の才能を見いだされ、進学を勧められました。父は、養子との結婚を条件に、環に進学を許してくれます。それを承諾した環は、晴れて上野の音楽学校へ進学しました。そこで、「荒城の月」「鳩ぽっぽ」などを作曲した滝廉太郎に師事を仰ぎ、20歳のとき(明治36年)には日本初の歌劇「オルファイス」の主役を演じます。
環の「マダム・バタフライ」誕生
卒業後、離婚と再婚という人生の大きな転機を経て、環は歌の勉強のためヨーロッパへ旅立ちます。ロンドンでは世界的指揮者サー・ヘンリー・ウッドに認められ、また世界の檜舞台、アルバートホールでも大成功をおさめました。そして、三浦 環の代名詞にもなった「お蝶夫人」へ出演。作曲家プッチーニからも「世界にただ一人の、もっとも理想的な蝶々です」と最大級の賛辞を得ました。
山中湖との出会い
最愛の夫、三浦氏の死を乗り越え、海外での活躍を続けた環でしたが、52歳のときに帰国。戦時下には母とともに山中湖村に疎開してきました。当時では貴重なピアノを持ち込み、地元の人々とも気さくに交流し、また同じように疎開してきた多くの文化人らと集ってサロンの語らいを楽しんだと言います。 当時、村人たちが夜明け前から山に草刈りに出かけると、湖上を渡って何とも美しい歌声が流れてきました。環が毎朝、湖に向かって練習をしていたのです。
富士を仰ぐ湖畔に
こうして美しい歌声を保ち続けた環でしたが、終戦を終え、ほっとしたのもつかの間、病に伏してしまいます。そして昭和21年、62歳のときにその華やかな生涯に幕をおろしました。「富士山の見える湖畔で母とともに眠りたい」という遺言により、山中湖畔に三浦 環の墓が建てられました。墓碑には環の自筆で「声」の文字と詩が刻まれています。 「うたひめはつよき愛国心を持たざれば真の芸術家とはなり得まじ」
